August 25, 2023

冷泉家~日本人の原点、和歌を守り伝える800年。

座敷棟は上の間と中の間に分けられ、襖を取り外すと、ひとつの広い空間として使用できる。上の間の床は部屋の中央にあり、正月の歌会始や旧暦7月7日に行われる乞巧奠(きこうでん)など、行事の際には祭壇を設けることができるようになっている。四季折々に軸や花が飾られる(注釈:写真は5月に行った取材時の設えになります)
PHOTOS: KOUTAROU WASHIZAKI

冷泉家(れいぜいけ)

平安・鎌倉時代に天皇の勅宣によって編纂される和歌集の勅撰選者でもあった藤原俊成・定家を先祖とする“和歌の家”。定家の孫、為家から冷泉家を名乗り、二十四代当主、為任の長女、貴実子との結婚によって為人が二十五代当主を継ぐ。冷泉流歌道や年中行事を継承するとともに、国宝5件、重要文化財48件を含む古文書と典籍、京都市内にある京都御所の北側に位置し、唯一完全な形で現存する公家屋敷(重要文化財)の維持・修復に努めている。江戸時代にはすでにあったという収蔵庫「御文庫」(おぶんこ)は屋敷内では神聖な場所とされ、現在も当主と嗣子のみ、入ることが許される。二十四代当主、為任の孫、野村渚が後継予定。
公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫 https://reizeike.jp

冷泉家住宅は江戸時代後期(1790年)に建てられた、完全な姿で現存する唯一の公家屋敷。国の重要文化財にも指定されている。

日本人であれば、「梅」の枝に来る鳥といえば、誰もが鳩でもインコでもなく「鶯」と答えるだろう。そして、「梅に鶯」といえば、季節は春だと誰もが思い描き、そのモチーフは絵画や着物や器、茶道具などの工芸品にいたるまで盛んに用いられてきた。「それが和歌に始まる日本の“型”の美なのです」。冷泉家二十五代当主、冷泉為人は語る。

五七五七七の三十一音からなる日本特有の定型詩、和歌は茶の湯や能、香道といった伝統文化から現代生活に至るまで、日本人の精神に多大な影響を及ぼしてきた。その和歌を800年にわたり家業としてきたのが、京都御所の北側に位置する冷泉家だ。先祖には平安・鎌倉時代に歌聖と仰がれた藤原俊成・定家親子がいる。

古くから天皇や征夷大将軍など、国を治める者にとって必須の教養であった和歌を伝える貴族の家として、冷泉家はいくつかの役割を現代まで担ってきた。ひとつ目は冷泉流歌道の継承だ。毎月、和歌を教授し、共に研鑽する和歌会を主催。和歌を詠む(作る)。披講(声を出して和歌を歌う)。さらに作法も含め、すべてに約束事である“型”がある。

「そこが明治維新後に西洋から入ってきた、自我を自由に表現する“芸術”と異なります。型で表現される事柄は現実ではありません。日本人なら“梅に鶯”と即答できても、実物を見たことがある人はほとんどいないでしょう。また、鶯は春以外の季節にも存在します。でも、平安時代に成立した和歌集『古今和歌集』以来、鶯は春を象徴する鳥。これを日本人は論理ではなく、情趣として“なんとなく”理解する。それがまさに日本的であり、この感覚は外国人の方には理解しづらいようです」(為人氏)

為人の妻であり、二十四代当主、為任の長女、冷泉貴実子はこうも話す。

「和歌はもともと、神さまに捧げるもの。その昔は祭りごとをすることが政治。祭政一致で、その役目を天皇が担っていました。五穀豊穣や人々の健康などを願うわけですが、その際、神さまを喜ばせる美しい言葉が選ばれ、研ぎ澄まされていった結果、和歌の型が定められていったのです」

冷泉家が担う2つ目の役割は年中行事の継承だ。これにも型があり、正月や歌会始、立春前に行う節分、7月7日の乞巧奠(きこうでん)など、毎年、定められた日時に特定の事柄や儀式を行う。

「平安時代以降、天皇がいる宮中では型の世界が明治まで展開されていました。位や状況によって着る衣服や作法が決まっていて、それを知っていることが貴族の証だったのです。先祖、藤原定家が書いた日記『明月記』には、そういった生活のしきたりについて、日々、細かに記されていて、子孫に型を伝えていたことがわかります」(為人氏)。

江戸中期に建てられた御文庫(おぶんこ)は冷泉家にとって、神殿のように非常に神聖な場所である。土蔵造の二階建で、唐破風屋根の棟瓦には、冷泉家の当主紋である「雪笹」紋が浮かび上がる。この中で祖先である藤原俊成や定家の自筆本など、国宝や重要文化財に指定される典籍や古文書などを長年にわたって守ってきた。すぐ隣の御新文庫は主に江戸時代の典籍を収蔵する。現在、敷地の北側に新しい蔵を建設中だ。

和歌や年中行事など無形の文化財に加え、冷泉家は家に残された有形文化財の維持も担う。内訳は前出の『明月記』を筆頭に、古文書と典籍で国宝5件、重要文化財が48件。それを保管する蔵も含む冷泉家住宅も重要文化財に指定されており、それらの管理には莫大な費用がかかるが、国や地方自治体の負担は限定的で、大半は冷泉家が費用を受け持つ。戦後、華族制の廃止により国からの収入が途絶え、先代は会社員になった。日々の糧を冷泉家の文化財保存に注ぎ込んできたが、税金数十億円を払えと言われたらひとたまりもない。国税庁の役人から「家屋敷を売れ」と言われたこともある。そこで、冷泉家は1981年に公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」を設立。明治維新の際、東京遷都に伴い、平安時代から続く多くの公家が天皇の後を追って東京に引っ越すなか、京都に残り、有形無形の文化財を守り抜く決断をした先祖の思いを引き継いだのだ。それでも、費用捻出の苦労は続く。古文書と典籍の修理だけでも毎年、2千万円ほどかかる。現在、新築で建てている収蔵庫「北の大蔵」の建築費用には、工事前後の整備費用も含め、総額3億円が必要で、冷泉家が支払わなければならない。

「文化庁に国に費用を負担してもらうようお願いに上がりましたが、即座に却下されました。『教育と文化財を応援しても、(選挙の)票に繋がらない』ということです」(為人氏)

その結果、費用の一部をクラウドファンディング、多くを心ある個人を中心に企業などからの寄付に頼っているが、気前よくお金を出してくれるところはなかなかない。そのため、常に寄付を募っている状況だ。

また、「北の大蔵」は当初、文化庁からは空調を備えたコンクリートの建築を薦められたものの、冷泉家は土蔵を選んだ。

「コンクリート建築は100年保ちませんから、数十年ごとに改築費用がかかります。そのうえ動力を使った空調設備が必要で、動力が絶たれたときの対処が難しい。一方、土蔵は400年保つことは、少なくとも江戸時代から残っている5つの蔵で実証済み。耐火性、耐久性に優れ、自ら呼吸する土壁によって、庫内の湿度や温度が自然に近い環境で保たれ、文化財の保管庫としては理想的なのです。また、土蔵を作る技術は城壁を作る技術でもあるのですが、それも失われつつある今となっては、その技術を継承する意味も兼ねています」(貴実子氏)

次世代に日本の伝統文化を伝える冷泉家。最近は京都府の高校、十数校に出向き、和歌の授業も行っている。

「戦後の教育は“人と違うこと”をよしとしていますが、型というのはみんな一緒。でも、それが逆に若い人には新鮮に映るようです。また、型という共通認識があるから、同じ空間にいる人が一斉に同じ気分になれる。梅に鶯といえば、春だな、嬉しいな、めでたいなと思う。そこに、みんな一緒という安心感や団結力が生まれるわけです。それは文化面のみならず、経済面でも日本を支える力になってきたのではないでしょうか」(貴実子氏)

古くから伝わる和歌を知ることは、現代における日本人の精神、ひいては日本という国への理解に役立つはずだ。

座敷の襖の唐紙は京都の老舗唐紙店<唐長(からちょう)>製。江戸時代から伝わる版木で刷られた牡丹唐草文様は光の加減で色が変化しているように見える。

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