April 21, 2023

平和を生み出す、希望のタワー。

ライター:中和田ミナミ

<おりづるタワー>の展望台は、床に高低差が設けてあり“広島の丘”と名付けられている。窓ガラスは一切無く、メッシュのワイヤーで覆われているため自然の風が屋上を抜けていく。床・柱・天井はすべて木材でできていて、まるで神社の中にいるような神聖な感覚に包まれる。広島にある世界遺産<厳島神社>が海の上に建つ神社なら、ここは天空の神社という雰囲気だ。
PHOTOS: KOUTAROU WASHIZAKI

Hiroshima Orizuru Tower

●広島県広島市中区大手町1-2-1 ℡082-569-6803 不定休。営業時間10時~18時(展望台への入場は17時まで)展望台入場料:2,200円 。※休館日・営業時間は変更になる場合があるので要事前確認。
https://www.orizurutower.jp/

「この風景を見せることこそ、私の使命だと感じたのです」。<おりづるタワー>の生みの親である松田哲也は、このタワーの屋上で、眼下に広がる平和記念公園を見ながらそう言った。屋上からはすぐ真下に原爆ドームが見え、遠くには建築家・丹下健三設計の<広島平和資料館>や慰霊碑を望むことができる。松田は広島市生まれの広島市育ち。広島で松田と言えば、そうロータリーエンジンの開発や、世界一の生産数を誇る2シーターオープンスポーツカー<マツダロードスター>で知られるあの自動車メーカー<マツダ>ファミリーの一員である。

2016年完成。設計:三分一博志 1978年竣工の損保会社所有のビルを改修。既存の建物は12階建てだったが、屋上部分を新設、さらに原爆ドーム側にテラスを、その反対側にスロープを設け建物の耐震化を計っている。2階~11階部分はオフィス等になっており、一般の人は1階、12階、屋上、スロープ部分の利用・見学が可能。

1920年創業の<マツダ>は松田哲也の曾祖父に当たる松田重次郎が事実上の創業者で、重次郎の次男で、マツダ車の販売を手掛ける<広島マツダ>創業者・松田宗弥は哲也の祖父に当たる。その<広島マツダ>は1933年、原爆ドーム近くの地で創業したが、1945年8月6日の原爆投下で社屋は倒壊、松田宗弥も他の社員と共に、全員が亡くなった。広島市で生まれ育った人は誰もが家族や親戚を原爆で亡くしているというが、哲也も祖父を原爆で亡くしているのだ。幸いにも当時8歳だった哲也の父は田舎に疎開していたため難を逃れ、彼がこの世に生を受けることができたのはそのお陰とも言える。「この景色をたくさんの人に見せてあげたい・・・」。松田哲也がそう思ったのには、このような背景がある。

この<おりづるタワー>は、損害保険会社のオフィスとして1978年に建てられた12階建てのビルをリノベーションしたものだ。原爆ドームのすぐ横に建ち、通りの向かいにはかつて広島市民球場(現在は移転)があり、広島市民には知られた建物だった。そのビルが2009年に売りに出た。一等地ゆえ売却予定額は高かった。松田はそのビルの内覧会に購入する気なく物見遊山で参加してみたが、何気なく見た屋上からの風景に衝撃を受け、建物の購入を決めたという。

「まず驚いたのは眼下に見えた原爆ドームでした。私を含め原爆ドームは下から見上げるもので、それは平和の象徴として目の前にそびえたっているものでした。でも、上から見下ろす原爆ドームは、骨組みだけになった天井部から内部が透けて見え、それが私にはとても小さく哀しいものに映りました。と、同時に原爆ドームの向こうに広がる豊かな風景にも心を奪われました。原爆で70年間は草木も生えないと言われていたのに、そこには緑に包まれ生き生きとした、美しい街並みが広がっていたのです。これまで広島には街を展望できるタワーのようなものがありませんでした。この景色は全世界の人が見るべきだ、このビルで働いている人や管理人だけが見られる風景ではだめなんだ。この景色を開放したい。その思いだけでした」。松田哲也はそう語る。

新築で建て替えると平和記念公園に面した土地ゆえ、広島市の条例で原爆ドームの高さ25mを越える建物は規制されていた。そこで松田は建物をリノベーションすることにした。彼は高校時代からの友人で、広島を拠点に活躍する建築家・三分一博志に建物の改修を依頼した。三分一は瀬戸内海に浮かぶアートで知られる島、犬島や直島で<犬島精錬所美術館><直島ホール>などを手掛ける、空気の流れや自然環境を重視する建築家だ。当初、松田は上を向けば空が見える屋上のような展望台を考えていたというが、三分一のアイデアで屋根付きの展望台となった。また、ガラス窓越しに風景を眺めるのではなく、展望台の周囲をワイヤーメッシュで覆い、風が抜ける開放的な、今までにない展望台が生まれた。

松田哲也

<広島マツダ>会長兼CEO 1969年、広島県広島市生まれ。2009年に一般社団法人広島青年会議所(広島JC)理事長、2013年に広島商工会議所青年部(広島YEG)会長を歴任するなど、地域経済の振興と社会貢献に情熱を燃やす。また<広島マツダ>の事業以外にも、スマートフォンアプリの制作、アパレル事業、旅館業など多くのビジネスを手掛ける。<おりづるタワー>は、建物を2010年に取得。2013年に改修計画を発表し2014年に着工。2016年7月にプレオープン、同年9月にグランドオープンを迎えた。

このタワーの魅力は展望台だけではない。ビルの北側、大通りに面した側を見てみると透明なガラスに大きな折り鶴の絵が描かれている。そこに近づいて見てみるとその壁面はガラスケースになっていて無数の折り鶴が収められているのがわかる。これは「おりづるの壁」と呼ばれるもので、展望台のひとつ下の12階フロアから、来館者自身が折り鶴を折り、このガラスケースに投入することができるのだ。広島市民は原爆で亡くなった人や被爆者のため、また核廃絶などの願いなどを込め、小さな頃から色とりどりの紙で折り鶴をつくる。この街で折り鶴は平和の象徴だ。現在、その数約80万羽。ガラスケースの2階から6階部分まで積み重なっている。

「一般的に壁というと、ベルリンの壁もそうですが、よじ登ったり、壊したり、乗り越えたりするものです。しかしこの壁は違います。みんなの力を結集して積み上げていく壁なんです。折り鶴は2016年にオバマ米国大統領(当時)が広島を訪れた際、大統領自らが4羽の折り鶴を折って広島の中学生に渡したことで、核兵器のない平和な世界を願うアイコンになりました。12階では来館者に実際に折り鶴を折ってもらう場を提供しています。折り方の説明も、日英表記だけではなく、中国語、韓国語、スペイン語、フランス語、アラビア語など多言語で説明しています」。実際に12階の「おりづるの壁」の上に立ってみると足元はガラスになっていて、下が透けて見える。小さな投函口から折り鶴を入れてみると、ひらひらと回転しながら折り鶴が舞い降りていく。<おりづるタワー>では、ただ屋上で美しい風景を眺めるというだけでなく、平和を願いそれに参加することができるのだ。

「今まで広島は過去を遡る施設しかなく、1945年8月6日だけを見せよう、見せようとしていたような気がします。私たち広島人にとって原爆のことはとても重要な出来事ですが、反核・反戦=平和だけではないと思います。広島の地を訪れた海外の人が、この街に生きる私たちが笑顔で豊な暮らしをしていることを見ることで、そこに平和や希望を感じる。過去だけではなく、未来を感じて欲しいと思う原動力が<おりづるタワー>をつくったんです」。そう語る松田の目には、平和は自分たちの手でつくっていくものだという力に満ちていた。

<おりづるタワー>の展望台から見た原爆ドーム。鳥のような視点で原爆ドームを見ることができるのはこの建物ならではだ。

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