April 21, 2023
広島市中心部にある“平和の象徴”を訪ねる。
2023年5月19日~21日、反核・反戦の象徴となっている都市でサミットが開催されることの意義は大きい。第二次大戦では敵国として対峙したことのある各国の首脳が戦後78年経った今、被爆地のひとつ広島に集まるのである。その広島の平和の象徴として誰もが思い浮かぶのが原爆ドームであり、毎年8月6日に式典が開かれる平和記念公園である。ここではどのようにしてこの平和記念公園がつくられたのか? また、広島市民にとっては当時悲しみの象徴であった原爆ドームがいかに残されたのか、を追ってみたい。
広島の平和記念公園は日本を代表する建築家・丹下健三(1913~2005)によってデザインされたもので、原爆投下から10年目の1955年に完成した。平和大通りから公園に入ると、<広島平和記念資料館(本館)>(1955年竣工)が真正面に現れる。この建物のピロティ(柱で持ち上げられて生まれた空間)をくぐると正面に原爆慰霊碑が位置し、その慰霊碑の向こうに原爆ドームが見える。そう、平和記念公園には、1本の軸線が走り、その線上に平和記念資料館、慰霊碑、原爆ドームが一直線に並んでいるのである。
丹下健三は、幼少期を愛媛県今治で送り、高校生時代は広島で過ごした。その後、東京帝国大学(現・東京大学)へ進学したため郷里から離れたが、1945年8月、父危篤の報せを受け急いで故郷へ戻る途中、尾道で広島市への原爆投下を知った。今治に戻った丹下を待っていたのは、父の死だけでなく、8月6日今治空襲での母親の死だった。若き日の丹下にとって、この両親の死は原爆投下と重なって見えたに違いない。
日本政府は敗戦後、戦災復興院を立ち上げ、建築家たちは日本各地の都市復興計画を担っていた。しかし、“広島には70年間、草木も生えない” “広島に行けば原爆症で死ぬ“と言われていた時代、この街の復興計画に手を挙げるものはいなかった。そこに率先して広島復興を申し出たのが丹下だった。原爆投下から1年後の1946年夏、丹下は東京大学丹下研究室のスタッフ2名と共に現地へ入った。当時、丹下に同行した建築家の大谷幸夫(1924~2013)によれば、どの都市の復興計画でもまず地図を入手し街を歩くが、広島中心部は壊滅的で瓦礫はそのまま、地図を見てもかつての街の痕跡を見いだせなかった。食料も手に入らない時代、ヤミ市でなんとか食べ物を調達し都市計画を進めたという。そのような困難のなか、丹下が特別な思いを持って作成した計画書は1947年に広島市議会で決定された計画案に反映された。
そして1949年5月、今回の話の本題である広島平和記念公園の設計競技開催が発表された。内容としては、記念公園のランドスケープと、公園内に資料館・公会堂などの諸施設をつくることだった。問われたのは、公園内にいかに施設を配置するか? 丹下はこのコンペに参加し、敷地の南端を走る100m道路の東西のラインから原爆ドームへまっすぐ南北のラインを引き、主要な建物は道路と平行して東西に並ぶ提案をした。このコンペには日本全国から132案が寄せられたが、原爆ドームを象徴的に計画に取りこんだ丹下案が1等に選ばれた。その後実施設計の段階でコンペ案が変更され、この南北の軸線上に慰霊碑が設けられることになった。
実は終戦後街が復興していく過程で、原爆ドームを含む原子爆弾の影響を受けた建造物などを残すか否か議論があった。市民感情からすると忘れ難い体験を思い起こさせるものとしてその保存に反対の声もあったが、終戦後、被爆地・広島を管轄していた英連邦オーストラリア軍の復興顧問S.A.ジャビー少佐は観光資源という観点から保存論を唱えた。1948年8月1日付の地元広島の『中国新聞』によると、ジャビー少佐の意志を反映させた形で広島市観光協会により、原爆ドームを含む12か所が“原爆名所”という名の観光スポットとして発表されている。このジャビー少佐は平和記念公園のプロジェクトの推進役で、コンペ開催前の1948年に慰霊堂建設の構想を抱いて丹下健三の元を訪れていたため丹下とは面識があった。この時、原爆ドームについてどのような議論が2人の間で交わされたかは記録に残っていないが、コンペでの丹下案が原爆ドームを計画案の中に取り込んだという点で、彼のお眼鏡にかなったものであったと言える(しかしジャビー少佐は1949年5月頃、復興顧問の任期を終えているので案の選定に影響を与えたか否かは定かでない)。
その後も幾度となく原爆ドームの存続に関して議論が続くが、丹下が広島平和公園の計画にこの建築物を象徴的に組み込んだことで、原爆投下から78年経った今も平和の象徴としてこの地にあることは間違いない。