December 22, 2023

「ゼロ円生活」から学ぶ、生活の知恵。

文・写真:井上恭介

瀬戸内海の風景。朝の気温や湿度によって、目の前の島が見えたり、見せなくなったり、大きさや色も千変万化する。
PHOTOS: KYOSUKE INOUE

かねてより仲の良い、信念が強い美人、染織家の新里カオリさんを訪ねた。場所は、広島県尾道市の向島。彼女はこの地で、剪定した果樹の枝や昔ながらの柿渋で帆布を染め、バッグやポーチなどをつくっている。もちろん私は、10歳以上年下のアメリカ人のパートナー、トーマスとも旧知の間柄だ。何年か前、江戸時代の街にタイムスリップしたような元武家屋敷の宿で行われた二人の結婚式に、私は息子連れで参列したこともある。この結婚式は、ケーキカットの代わりに二人で稲刈りしたり、餅つきをしたりというユニークなものだった。

この夫婦、瀬戸内の良いところも、一般的にはマイナスとされることも活用する、里山暮らしの達人、といってよい。彼らの住まいは、「土蔵のような家」だ。元々は、農家が、農機具を置くための納屋だった建物を、300万円ほどかけて改修。過疎と高齢化で誰も使わなくなっていたものを利用しているので、家賃は「ゼロ円」。周りのとてつもない面積の畑と山も「ゼロ円」で借りている。貸主からは恩着せがましいことを言われるどころか、感謝されている。草ぼうぼう、荒れ放題だったところを、ヤギやヒツジを1年放して雑草を徹底的に食わせ、元の段々畑に戻したからだ。今もブタやニワトリ、アヒルやヒツジなどを飼いながら、かぶの葉だけを、「有機無農薬野菜」として宅配便で全国に販売。ファンを増やしている。

朝、カオリさんは木戸をあけ、体重60キロの豚の「ぶっちゃん」のもとへ。その辺で抜いた草を、その手からブーブー言いながら、手の平や甲に、顔をすりつけて食べている。カオリさんが大好きなのだ。だからカオリさん、ブタなのに「食べられない」と語った。でも、抜いた雑草や残飯、収穫した野菜の切れ端などが無駄にならないから、この豚の存在自体が、エコ生活の象徴で、かつ最高の癒しなのだそうだ。東京からファッション誌のライターが取材に来た際は、カオリさんのストレスゼロで超オーガニックな生活ぶりに嘆息。オーガニックな生活を極めていると雑誌で紹介したことのある女優のニコール・キッドマンのさらに上をいっていると感心しながら帰っていったという。

一方私は、夕暮れに庭で焚火を囲み、海が見渡せる部屋で寝て、夜明け前、浜辺に出た。

穏やかな波の音と鳥の声だけが響く、瀬戸内海。目の先に丸い島。数隻の小舟。私の性能のいいムービーカメラを防波堤に置き、スイッチを入れた。

スイッチを切ることができない。海の色のグラデーションが刻々と変化する。紫から白へ、そこへ赤味が射して。私は、カオリさんからもらったナッツ入りのパンをかじりながらボーっと立ち尽くした。遠くの島の一か所が濃いオレンジ色に染まり、やがて光線が漏れ出す。大きくなる太陽。水面にのびるオレンジ色のライン。そして波のドレープ。やがて太陽光は白色に。50分間もカメラをノンストップでまわしていた。顔いっぱいに朝日を浴びて、私自身が目覚めた気がした。

部屋に戻り、こたつで暖をとったあと、ぶらりと畑を訪れた。私が昨日顔だけ合わせ挨拶をした青年とトーマスが二人で、畑に黒いものを撒いていた。肥料なのだろう。その青年に、朝の浜辺で50分カメラを切れなかった、それくらい気分が良くなったと話した。すると青年が、ボクも実はこの1週間で人生が劇的に変わったと語り始めた。元は東京のIT関連の会社で働き、コロナ禍に尾道の向島でリモートワークをしたそうだ。でも気分が晴れない。思い切ってその会社を辞め、トーマスの畑で働き始めた。すると見える景色が変わった。吸っている空気も、食べる物の味も変わった。そんな1週間だったという。なんだ、東京から向島にやってきた私の朝の体験と同じじゃないか。私たちは固く握手を交わした。

トーマスは、毎日食べる野菜だけでなく、ビールも年間自給自足しようと、大麦やホップの栽培を始めた。

トーマスが語りだした。「これは牛糞だ。すぐには効かないが、長い時間をかけて土が良くなる。元々、ここの土は「まさ土」というさらさらの土で水はけがよすぎる。その弱点を牛糞が補い、有機物が微生物の力で分解され養分となるから、野菜が勝手に生えてくるようになる。でも、多くの農家は牛糞を使わない。重くて効率が悪いからね。でも牛糞はタダ同然だ。輸入肥料代の高騰で農家が苦しくなり、野菜の値上がりが日本人を追い詰めている。この状況は本当は何とかできるはずだ」。

素晴しい話だと思った。「タダより高いものはない」といっていた時代から「ゼロ円が最高価値」の時代へ。この静かだが確かな転換こそ、決して大袈裟ではなく人類を滅亡から救う道だと思った、プライスレスな1泊2日の旅だった。

井上恭介(いのうえ・きょうすけ)

作家・テレビディレクター。1964年生まれ。東京大学卒業後、1987年、NHK入局。以降ディレクター・プロデューサーとして30余年、『NHKスペシャル』などのドキュメンタリー番組を制作、あわせて取材記を執筆してきた。現在、ジャパンタイムズが主宰する「Sustainable Japan Network」アドバイザーも務める。今回の連載『Satoyama Capitalism 2024』では、自らが長年取材を続けてきた“お金第一主義”ではない価値観で暮らす人々を紹介する。

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