September 27, 2024
「今や絶滅の危機、日本の伝統的なきもの文化の課題」。
外国人が日本を訪れると、「きもの」を着た日本人が少ないことに驚くという。そして、日本の観光地できもの姿で出歩く人はレンタルきものを身につけた海外または日本の観光客であることが多い。矢野経済研究所『きもの産業年鑑』によると、戦後、きもの小売の売り上げは昭和56(1981)年の約1兆8000億円をピークに減少し続け、令和5(2023)年には2240億円となる。約40年間で8〜9分の1まで落ち込み、きもの市場は大幅に縮小したのだ。なぜ、こうなってしまったのか。日本の伝統的なきもの文化が直面する課題について、きもの研究家の石崎功に話を聞いた。石崎は同じく、きもの研究家であった父を持ち、大手きものチェーンで店長やバイヤーを務めた後、独立。現在はきもの業界でマーケティングやディレクターを務めながら、学術的な研究も行う人物だ。
「本題に入る前にまずは日本の織物の歴史の話をすると、3000年以上前の縄文時代にも日本で織物が織られていました。しかし6世紀に朝鮮半島から仏教とともに織物と、高度な織物の技術が入ってきたのが、現在のきものに使われる織物技術の始まりです。その時代、仏教は単に宗教というだけでなく、天文学や医療、建築なども含む最先端技術を網羅していて、そのなかに織物もあったわけです。実は戦後、日本経済を引っ張ってきた〈トヨタ〉〈スズキ〉などの自動車会社は、元々、織機を作っていた会社なんですよ。このように、織物産業はいつの時代も最先端の技術に関わってきたのです」
そして話は16世紀に及ぶ。
「江戸時代に入る前の16世紀頃には、現在、国の重要無形文化財にも指定されるような日本各地の伝統的な織物が出揃っていました。そのなかにはタイやインドネシアなど東南アジアにルーツをもつ絣、インドの難破船が種と製法をもたらした綿織物などもあり、多種多様です。出荷できないクズ繭を原料とする自家用の紬、木綿や麻は生活着に。絹織物も最初は仏教装飾や時の支配者や富裕な町人層を含む人々のためのものだったのが、次第に中流層の晴れ着として広まっていきました。形としては平安時代の十二単や江戸時代の小袖など時代によってファッションの変化はありますが、基本的には日本人はみんな、きものを着ていました」
だが、鎖国政策をとっていた江戸時代(1603-1868年)が終わり、近代化とは西洋化であると信じられていた明治時代(1868-1912年)、そして第二次世界大戦を経て、洋装が一般化したここ約80年。現在では多くの日本人にとって、きものは日常着ではなく、結婚式や成人式など、特別な日にしか身につけない装いになってしまった。
「これにはきもの業界にも責任があります。私の両親や祖父母世代は木綿やウールのきものも好んで着る人も多くいました。つまり日常着だったのです。ところが、それらは単価が安いため、業界が戦後の復興のため、売り上げを確保しようと1枚数十万以上はする晴れ着としての絹のきものの製造・販売に力を入れるようになったのです。そこで日本人にきもの=高級品というイメージがつきました。それでも景気のいい時代はよかったのですが、ライフスタイルの変化と不景気になるに従って、日本人のきもの離れが一気に進んでしまいました」
きものの売り上げが落ちると、作り手も減少する。絹を作るための養蚕農家、糸を紡ぐ人、染める人、織り手、各工程を担う職人たちが減った結果、消えていく伝統織物も少なくない。このままでは日本を象徴する伝統文化がなくなってしまう。そんな危機感から、石崎は新しい取り組みにチャレンジしている。染織ブランド10社で作ったグループ〈きものアルチザン京都〉を通じ、2016年に行われたNYコレクションに、世界で初めてきものを出展させるプロジェクトに参画して以降、文化交流も含め、海外にきものを広める活動をしている。さらには、主にきものにしか使われてこなかった織物を、インテリアや洋服、バッグなどの小物として製品化するなど、用途を広げることで日本の伝統的織物の生き残り作戦を図る。
石崎が商品企画に関わる京都市のブランド〈SACRA〉では従来の和装小物に加えて、環境問題に敏感な欧米向けの商品として、ペットボトルの再生糸を使用し、西陣織の技法で織り上げたダウンジャケットを製作するほか、とうもろこしの芯や果物の皮を原料とする糸作りにも取り組んでいる。また、石崎もよく知る福岡県〈西村織物〉が手がける伝統的織物、博多織は福岡市のホテル〈ザ・リッツ・カールトン福岡〉の装飾に使われるなど、少しずつ成果も出ている。
だが、石崎がもっとも重要視するのは伝統的なきもの文化を守り、未来に伝えること。そのひとつが若い養蚕農家の応援だ。
「1920年代には221万軒あった日本の養蚕農家は現在146軒。5年後には高齢化などの理由から69軒になると言われています。日本の養蚕農家が絶滅しないために、また、最高品質の国産繭を作るため、今が最後のチャンスと思って私にできる最大限のことをさせていただくつもりです」
また、きものは着付けの工程が複雑なため、普段着物を着慣れていない日本人は自分できものを着ることができないのが現状だ。この気軽に着ることのできない難しさもきもの離れの一因となっていると考えられる。そのため、プロの着付け師を増やす活動にも、石崎は力を入れている。
「日本の織物やきものは素晴らしい衣服文化であり、美術工芸品です。その魅力を海外の人に、そして、なにより日本人に感じてほしい」
日本のアイデンティティとも言えるきもの文化は今、大きな岐路に立っている。
石崎功
1966年、東京都にて、昭和を代表するきもの研究家・服飾研究家であった石崎忠司の次男として生まれる。きもの研究家・呉服業界プロデューサー・マーケティングディレクター。きもの小売店やメーカーでの商品企画や産地指導を行うほか、各行政での研究委員も務める。また、染織史や文様学などの研究にも力を注いでいる。編著『和の文様辞典 〜きもの模様の歴史〜 』(講談社学術文庫)。