November 25, 2022

沖縄の人に慰めと希望を与える名建築。

ライター:中和田ミナミ

教会は小高い丘の上にある。まるでここに暮らす人々を見守っているかのようである。
観光関連業者などからは観光スポットにして欲しいとの声もあるそうだが、あくまで信仰の場であることを心得て訪問したい。
PHOTO: KOUTAROU WASHIZAKI

建築好きの間で沖縄に行ったらぜひ訪れてみたいという人気の教会があるのをご存じだろうか。沖縄の県庁所在地である那覇市の中心部から車で約30分。中城湾を望む小高い丘の上に、その建物は建っている。

1959年からこの修道院で暮らすシスター・アグネス宮城。今年88歳を迎えるが子供たちへ向け「平和体験学習」などの活動を行っている。
PHOTO: KOUTAROU WASHIZAKI

<聖クララ教会>(カトリック与那原教会)――1947年にバチカンの要請でグアム島から宣教のため沖縄にやってきたアメリカ出身のフェリックス・レイ神父の主導により建てられたものだ。建物の完成は1958年。設計を担当したのは在日米軍の建設部所属の日系人建築家・片山献と、シカゴに本拠地を置く建築設計事務所SOMだ。ちなみに1936年に開所したSOMは現在、六本木の東京ミッドタウンをはじめ、日本でも数多くの高層建築を手がける、世界有数の大手組織設計事務所となっている。

敷地内に車を停め建物に近づくと、謙虚さと清貧さをあらわすかのような簡素な修道院のエントランスが現れた。建物に入ると、小さな中庭に面した高低差のある回廊があり、そこを進むとお目当ての会堂の扉が見えてくる。その空間に一歩足を踏み入れ、思わず息を飲んだ。そこは美しいステンドグラスに彩られた、光に満ちた空間が広がっていたのだ。この教会の完成は第二次大戦終結から13年が経ってはいたものの、壊滅的に破壊された沖縄にとって街の復興はまだまだ道半ばで人々の暮らしは依然として厳しかった。そんな時この会堂を訪れた人々はこの明るく美しい空間に触れることで、一瞬でも心の傷が癒えたことだろう。

<聖クララ教会>が竣工した1958年当時の写真。
COURTESY: ST. CLARA CHURCH / THE YONABARU CATHOLIC CHURCH

取材の交渉をしていたシスター中村が体調不良とのことで、急遽私たちの案内をしてくれたのは宮城涼子さんという1959年からこの修道院で暮らすシスターだった。この修道院には現在24名のシスターが暮らし、日々奉仕と祈りによる信仰生活をおくっているという。

会堂は北側一面がステンドグラスになっており眼下には与那原の街が広がる。陽射しの強い南側は中庭と回廊が配置され、最小限の高さに設計された窓は直射日光が室内に降り注ぐことを防いでいる。建物自体は平屋で中央部分がへこみ、そこから左右に屋根が広がるバタフライ形状だ。椅子に座ると、祭壇に向かって天井がだんだん高くなっていくことがわかる。

この建物はとても人にやさしい工夫が随所にちりばめられているとシスター宮城は語る。「病気の姉妹がベッドに寝たままミサに出られるよう祭壇の脇に病室がつくられていたり、修道院内の廊下がスロープになっていたりと細やかな配慮がされています。それ以外にも今でいう環境に配慮した工夫もあるんです。広い平屋根の屋上に雨水を集めそれを地下にある10トンの貯水タンクに貯め、日々トイレや洗濯など生活用水として使えるようになっています」。約65年も前につくられた建物だが、当時から人にも環境にもやさしいつくりになっていたのだ。台風の後は雨水に海水が含まれるためすべての水を捨てないといけなから大変とシスターは笑うが、幾度となくこの地域を襲った干ばつでは、この貯水タンクの水に助けられたという。シスター宮城の案内で普段立ち入ることのできない修道院の内部も案内してもらい、地下にある洗濯室では雨水の貯水量がわかる、竣工時から設置されている大きな計りも見せてもらった。

会堂の北側を見る。いくつもの細いコンクリートの柱が会堂の屋根を支える。その柱と柱の間がステンドグラスになっている。
PHOTO: KOUTAROU WASHIZAKI

私はシスター宮城になぜ修道院に入ったのかが気になり質問をしてみた。彼女は「本当はこの話しをするつもりはなかった」と言いながらもその理由を教えてくれた。

「私は戦前にフィリピンのダバオで生まれました。父は沖縄出身でしたが長男ではなかったので17歳でフィルピンに渡り友人たちと共に麻縄の工場を立ち上げ経営していたんです。私は小学校2年生までフィリピンで教育を受けました。当時学校の先生はスペインの人でした。ところが戦争がはじまり日本軍がフィリピンを占領すると、フィリピンの人たちにたくさんのひどいことをしました。戦争末期に日本の敗戦が色濃くなると、現地の人たちからの報復を恐れ、ダバオにいた日本人は軍人も民間人も皆、山岳地帯に逃げ込んだんです。川のそばにいるとみつかるのでそれぞれ3家族くらいで山の中に身を潜め、木の根元を掘り、飲み水を探しました。ある日、大人たちは食料や水を求め全員外出し子供だけで留守番をしていました。その時、私の弟と妹が日本兵に殺されたんです」。

エントランスを入ると現れる中庭。奥に見えるのが会堂だ。回廊は緩やかなスロープ、いわゆるバリアフリーになっている。
PHOTO: MINAMI NAKAWADA

西側の外観。東西の立面は穴の開いたコンクリートブロックが積み上げられ、風が内部空間に良く通るようデザインされている。冷房が完備されていない当時ならではの工夫が施されている。
PHOTO: KOUTAROU WASHIZAKI

シスターは淡々と話しを続けた。「私たち家族はその後米軍の呼びかけで投降しました。ジープで収容所まで移送されたのですが途中現地の人に見つかると何をされるかわからないので、米軍は私たちを隠して収容所まで連れて行きました。家族や友人を日本人に殺された人たちは、そのくらい怒っていたんです。この時の一連の記憶は簡単に消すことはできません。でも日本人として日本人の赦しを請うことはできる。そう思い、私は沖縄に戻り、シスターになったんです」。

人が心に秘めた深い傷や暗い過去を、他人は簡単に知る術を持っていないし、慰めを与えることも簡単ではない。しかし、祈りの空間がこの地に立ち上がったことで、多くの人々に癒しと慰めが与えられたことは事実だろう。青い南国の空の下、様々な思いを受け止める<聖クララ教会>のキラキラとした空間が、これからも沖縄で暮らす人に慰めを与えていくだろうことを感じた。

教会敷地内にあるフェリックス・レイ神父の墓地。
PHOTOS: KOUTAROU WASHIZAKI

教会のエントランス部分。
PHOTOS: KOUTAROU WASHIZAKI

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