November 25, 2022
沖縄のシンボル首里城正殿の復元に重なる、沖縄の姿。
首里城
14世紀頃創建された琉球王朝の城で、日本と中国、そして沖縄の文化が混ざり合った独自の建造物。その中心的な建物である正殿が2019年に原因不明の火災で焼失。現在、跡地周辺に建屋を設け、2026年に向け復原作業が進んでいる。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されている。
今から3年前の2019年10月31日の未明、世界遺産にも登録されている首里城の正殿内部で火災が発生した。消防は必死の消火活動を続けたが火は11時間燃え続け、正殿を含む8つの施設が焼失した。このニュースに日本全体が落胆したが、沖縄県民は他の都道府県民とは比べ物にならないくらいの大きなショックを受けた。首里城は、沖縄が日本に組み込まれる以前、独立した琉球王朝だった頃の14世紀頃に創建されたといわれる政治・文化・外交の中心的な施設だったからだ。現在、首里城では2026年の完成を目指し、正殿をはじめとした建物の復原作業が進められている。
今年2022年は、アメリカから沖縄が日本へ返還されて50年という節目の年である。第二次大戦でポツダム宣言を受諾し無条件降伏をした日本は、戦後、連合国(GHQ)の管理下に置かれた。1951年にサンフランシスコ平和条約に調印すると、1952年4月には6年半に及ぶ占領を終え、主権を取り戻し国際社会へと復帰を果たした。その陰で継続してアメリカの占領が続いたのが沖縄だった。アメリカは琉球政府を創設、軍政下に置き、基地や軍施設を建設していった。
特に1950年に勃発した朝鮮戦争で沖縄の戦略的価値は増し、1960年代のベトナム戦争では沖縄が最前線基地となり、爆撃機がこの地から飛び立っていった。日本に沖縄が返還され50年経つ現在でも、沖縄本島の約15%に当たる約1万8000へクタールの土地が米軍基地や関連施設として、日米安全保障条約のもと使用され続けている。沖縄県民の中でも基地を取り巻く経済に依存する基地存続派と、基地反対を訴える人たちで、常に分断状態にあるという現実もある。
そんな沖縄に初めて王朝が誕生したのは1429年のことだった。尚巴志(しょう・はし)が周辺地域を統一しここに琉球王朝がスタートする。王朝は1879年に日本の明治政府により「琉球処分」が行われ沖縄県が誕生するまで450年間続いた。この間、17世紀初頭に日本の薩摩藩による侵攻を受けながらも、薩摩藩と中国の王朝(明・清)への両属という体制をとりながら上手く外交を展開し立ち回った。そのため琉球王国は独立国家の体裁を保ち独自の文化を維持していった。
日本政府が国宝に指定している文化財は288件を数える(2022年3月時点)。しかし沖縄に国宝に指定されているものは極端に少なく、<琉球王国尚氏関係資料>(2006年指定)と、尚氏の墓である<玉陵(たまうどぅん)>(2018年指定)のわずか2つしかない。第二次大戦で激しい地上戦が行われた沖縄では貴重な文化財の多くが逸失しまったこともあるだろう。先に述べた火災で焼失した首里城も戦前は国宝に指定されていたが沖縄戦で焼失し、1992年に復元されたものだった(実は沖縄戦の前にも首里城は歴史上3回焼失している)。
だが首里城は、国宝でなくても焼けて無くなってしまっても、沖縄のシンボルであることに変わりはない。琉球王国の象徴であり、沖縄にルーツを持つ人たちの歴史と文化の拠りどころであるこの城。正殿の復原作業は、困難を乗り越え何度もそれを乗り越えていった沖縄の人たちの姿に重なるものがある。沖縄は今も現実社会ともがきながら、未来へと向かい進んでいる。