February 03, 2021
『日本唯一の鉄板張りの城「福山城」』(福山市)
福山城は,徳川家康の従弟である水野勝成が,西国鎮衛として徳川幕府から備後10万石を与えられて入封(入国)し築いた城で,1622年に完成しました。日本100名城のひとつとして知られています。
初代藩主の水野勝成は,1564年,水野忠重の長男として三河国に生まれました。「小牧・長久手の戦い」では一番首をとるなど,数々の戦いで活躍しましたが,父・忠重に勘当されてしまい,約15年もの間,放浪の旅に出ます。その間,豊臣秀吉,佐々成政,小西行長,黒田長政などの名立たる武将に仕えました。1615年「大坂夏の陣」では,敵の首97を討ち取ったともいわれ,その勇猛さから「鬼日向」と呼ばれるようになりました。
約15年振りに父と和解しましたが,その矢先,父・忠重が暗殺されてしまいます。勝成は父を継いで初代刈谷城主に,その後,1619年に備後国へ入封(入国)しました。入封(入国)後,領内をくまなく巡視して,軍事・政治・経済上もっともふさわしい場所を探し,現在の福山城の位置に城の建設を始めました。そして,1622年8月28日に城が完成し,名を福山と改め、福山藩が成立しました。福山城は,江戸時代建築最後の,最も完成された名城としてたたえられていました。
初代福山藩主としての勝成は,名君として知られています。政治手腕は確かで,上水道の整備や治水工事,産業の振興など多くの功績が残されています。
歴代の藩主は,水野家5代,松平家1代,阿部家10代と続きました。福山藩阿部家7代藩主は,ペリーと日米和親条約を締結するなど,激動の幕末で老中首座を務めた阿部正弘です。福山城は廃藩置県に至るまで藩治の中心でしたが,1873年に廃城となり,多くの城の建物が取り壊されました。更に1945年8月の空襲により,国宝に指定されていた天守と御湯殿も焼失しました。あと1週間戦争が終わるのが早ければ,今もなお国宝として残っていたかもしれません。
その後,戦後の復興に願いを込めて,市民の寄附で,1966年の市制50周年の記念事業として天守を再建しました。そして,日本でも珍しい天守を活用した博物館として開館しました。
1622年に築城された当時の福山城の天守1~4階までの北側には,天守が鉄砲や大砲で攻め込まれた際,守りの弱かった北側の防御力を上げるための鉄板が張られていたといいます。そんな鉄板張りの天守は‟全国唯一”だといわれていましたが,1966年の再建当時は,技術的,金銭的な事情で,完全な外観復元には至りませんでした。
しかし,今,当時できなかった「天守北側鉄板張り」や,高欄,華頭窓など各階の窓の外見を復元しようとしています。
福山城が築城400年を迎える2022年には,‟全国唯一”の城として,かつての城の姿を皆さまにお見せすることができるでしょう。
復元後の天守から街を眺めると,かつて福山を治めていたの藩主たちの気持ちが少し分かるかもしれません。