January 27, 2023
取り壊しの危機もあった貴重な文化遺産。<国際文化会館>の建築を巡るストーリー。
六本木・鳥居坂の閑静な住宅地に位置する<国際文化会館>は、国の登録有形文化財(2006年登録)にもなっている、日本のモダニズム建築を代表する特別な存在である。一番のポイントは敷地に元々あった日本庭園を生かしつつ建築をつくり上げたことにあるだろう。屋内から庭への空間の連続性や、コンクリート造ながらも和を感じるデザインを施し、美しい庭園とモダニズム建築を見事に調和させている。
この施設をつくるにあたり、前川國男、坂倉準三、吉村順三という、当時日本代表する建築家へ同時に設計が依頼された(1953年)。本来であれば、指導的な立場にあった3名の建築家が共同設計するということは考えられない。記録に残っていないので共同設計の経緯などその理由は定かでないが、テイストの違う建築家の3名の協働は大変な苦労を伴った。だが同時に、それが功を奏したからこそ、上品でバランスの取れた質の高い今の会館の建築があると言っていいだろう。
作業の第一段階としては、3名それぞれが設計案を提出した。しかし3案を一本化するのは困難を極めた。そこでまず前川が自分の案を引込め、残り2案の調整役に回った。だがそれでも方向性の違いは解消できず、プランを新しく練り直すことになったという。共同設計の作業は各氏が所員を1名ずつ出し、トップ同士の打ち合わせは1週間に1回弱のペースで進められた。「全体デザイン」を坂倉・吉村の両氏が、「ディテール」のデザインを前川が行った。1954年初頭にようやく設計がまとまり、清水建設により施工が始まった。着工直後の1954年5月には<国際文化会館>が「特別人物交換プログラム」で日本に招聘したドイツの美術学校バウハウス初代校長で当時アメリカ・ハーヴァード大の建築学部長だった建築家ヴァルター・グロピウスも工事現場を訪れた。
こうして2年の時を経て、1955年6月に開館、翌年1956年には「日本建築学会賞(作品賞)」を受賞した。1958年には会議室(設計:前川國男)と食堂(設計:吉村順三)を増築、1959年ロビー拡張工事、1960年擁護壁拡張工事、1961年玄関・クローク等改造といった改装を経て、1973~1975年には大規模な改修工事と新館の増築が行われた(設計:前川國男)。
このように多くの熱意によって生まれ、親しまれながら多くの国際的な交流を生み出してきた<国際文化会館>だったが、2002年この貴重な建築は存続の危機に直面する。施設の老朽化と財政難を理由に、財団の理事会が建物の建て替えを決定したのだ。この建て替えには敷地の一部と空中権の売却も伴っていた。
日本建築学会は2003年5月、会館の保存活用要望書を財団に提出した。最終的には文化会館会員の存続を求める声や日本の建築関係者の保存運動の甲斐もあり、2004年の理事会で改修による建物の存続が決定。2005年に耐震構造を含む大規模改修を実施することになった。工事は建築の外観や、庭と建物の伝統的なたたずまいは変えることなく行われ、この手法は戦後の名建築を保存する取り組みとしては画期的なものと評価された。この保存再生の取り組みに対し2007年、2度目の「日本建築学会賞(業績賞)」を受賞した。
先人の思いや文化を次世代に継承する――名もなき多くの関係者の努力により、貴重な建築や庭園は存続することとなった。だから、今も私たちの目の前に<国際文化会館>があるのだ。知られざる建築を巡るストーリーに思いを寄せながら、実際にこの会館を訪れてみたい。
前川國男(1905~1986年)
東京帝国大学(現・東京大学)卒業の翌日にパリへ渡り、ル・コルビュジエの事務所に入所(1928~1930年)。1930年に帰国すると東京にあったアントニン・レーモンドの事務所に入所。1935年自らの事務所を開設。代表作に<東京文化会館>(1961年完成)などがある。
坂倉準三(1901~1969年)
東京帝国大学(現・東京大学)卒業後、1929年渡仏。1931年、前川國男の紹介でル・コルビュジエ事務所入所。1937年、パリ万博日本館でグランプリを受賞。1940年、自らの事務所を開設。代表作に<神奈川県立近代美術館(現・鎌倉文華館鶴岡ミュージアム)>(1951年完成)などがある。
吉村順三(1908~1997年)
東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業後、1931年、東京のアントニン・レーモンドの事務所に入所。1941年、自らの事務所を開設。代表作に<俵屋旅館>(1965年完成)、<奈良国立博物館新館>(1972年完成)など。皇居新宮殿の基本設計も手掛けた。