January 27, 2023
<国際文化会館>は、なぜ生まれたのか?
ウクライナでの戦争が始まり、今年2月で1年を迎える。21世紀を迎えた今、このような戦争が起こるとは想像していなかったという声も耳にするが、世界に目を向けてみれば、国家間、民族間の対立が止むことは今まで一度もなかった。紛争や内戦は常にどこかの国や地域で起きているのが現実なのだ。日本は第二次大戦の敗戦と7年間の連合国の占領を受け、以降、戦争の当事国にならない努力を重ねてきた。東京・六本木に建つ<国際文化会館>はその努力の象徴とも言える施設のひとつと言えるだろう。
<国際文化会館>は1952年に、国際的な相互理解を目的とした「文化交流」と「知的協力」の場となるべく設立された公益財団法人である。1955年に完成した施設自体は、カフェ、レストラン、図書館、会議室、宿泊施設などを備えた国際交流のためのサロンや会員制クラブのようなものだが、同時に日本と海外の知識人、文化人が自由に交流するための文化交流、知的協力プログラムを行う組織でもある。
この<国際文化会館>誕生の日本側の原動力となった人物がいる。ジャーナリストの松本重治(1899年~1989年)だ。松本は東京帝国大学を卒業後、イエール大学やジュネーブ大学で学び、その後1933年に日本の新聞社の上海支局長として中国で活躍した人物である。彼の回想録『上海時代』(中公新書、1974~75)からは、氏の国際的な交友関係の広さと、当時の日中両国の相互理解の不足(特に日本側の理解不足)に対する懸念が窺い知れる。また日米開戦を招いた一旦として、当時の日本人の国際知識の欠如があると松本は考えていた。このような先の大戦の反省から、その解決策として国際的な文化センターの設立を切望していたのである。
もうひとりの立役者がジョン・D・ロックフェラー3世(1906~1978年)である。実は松本とロックフェラー3世は日米開戦12年前の1929年秋に京都で対面していた。太平洋問題調査会(IPR)第3回京都会議に、それぞれ日米代表団の秘書という立場で参加し交流を深めていたのだ。ロックフェラー23歳、松本30歳という年齢だった。この当時は両人共、日米開戦は想像していなかったかもしれない。
それから20年以上が経った1951年1月、二人は再会を果たす。対日講和条約締結の準備交渉のためトルーマン米国大統領が日本へ派遣したジョン・フォスター・ダレス特使一行の一員としてロックフェラー3世が来日したのだ。日本の国際化に深い関心を抱いていたロックフェラーは、松本が抱く国際交流の場をつくることに賛同し、日本側が1億円の調達を1953年8月までに達成することを条件に、ロックフェラー財団から2億4,000万円(約67万6000米ドル)の資金提供を約束した。目標額は在日外国人コミュニティーからの300万円の寄付もあり、期限内に達成し、<国際文化会館>の具体的な計画がスタートした。
松本がセンター建設の敷地に選んだのは、作庭家として名高い、七代目小川治兵衛がつくった日本庭園を有する3,000坪(約10,000㎡)の敷地だった。ここは三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の甥、岩崎小彌太の旧邸宅だったが、敗戦後の財閥解体により岩崎家から物納され国有地となっていたものだった。建物の設計は3人の著名な日本人建築家・前川國男、坂倉準三、吉村順三に依頼され共同設計という形で1954年3月に着工、進められた。
1955年6月、<国際文化会館>はついに正式に開館した。オープニングレセプションにはロックフェラー3世も夫人と共に出席した。松本とロックフェラー3世の協力関係はその後も続いた。特にアメリカにおけるアジア理解促進のため、ニューヨークの<ジャパン・ソサエティー>を復活・再興させ、1956年には<アジア・ソサエティー>を創設した。またインド・デリーでは<インディア・インターナショナル・センター>の設立に尽力した。
<国際文化会館>は昨年2022年で、設立70年を迎え、アジア・パシフィック・イニシアティブ(シンクタンク)と合併をし、知的対話、政策研究、文化交流を促進し、自由で、開かれた、持続可能な未来をつくることに貢献するのミッションのもと邁進している。松本重治が生前、好んで口にした言葉に、「文化交流は人に始まり、人に終わる」というものがある。近頃の世界情勢を見るにつけ、この言葉の重みが実感として心に響く。