June 28, 2024
原発事故にもコロナ禍にも負けず、継続してきた祭り。
晴天に恵まれた5月下旬の週末。福島県南相馬市中心部の沿道に詰めかけた多くの聴衆を前に、馬に乗り甲冑を身にまとった武者が次から次へと進んでいく。祭りの2日目に行われる「お行列」と呼ばれる神事だ。かつてこの地を治めた領主・相馬家の氏神を祀る相馬三社(相馬太田神社・小高神社・中村神社)の神輿をそれぞれ擁し、三軍に分かれて市中を進軍する。その数、総勢388騎。これほどの馬の数、また武者の数・・・この祭り以外では決して目にすることができない光景だろう。「相馬野馬追」――かつての相馬一族の領地(現在の相馬市・南相馬市・浪江町・双葉町・大熊町・飯館村・葛尾村の7自治体)で行われる、東北の夏の始まりを告げる祭りである。
この祭りの起源は、平安時代中期(10世紀)まで遡る。天皇家の血筋である武将、平将門が下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県松戸市・流山市付近)の牧で野馬を捕らえ、御神馬として神前に奉納、またこの馬を敵兵に見たて軍事訓練をしたことが由来とされる。この平将門につながると言われる相馬氏の第6代当主・相馬重胤が、1323年に所領である陸奥国行方郡太田村(現在の福島県南相馬市)にやってくる。以来この地で、野馬追が行われるようになったのだ。1889年、明治時代になると武家社会は終わりを告げ、日本は近代国家を目指す。この過程で、放牧されていた馬が捕獲されるなど野馬追の開催が危ぶまれたこともあった。また日本が太平洋戦争に敗戦し1945年にGHQの管理下に置かれた際、大勢で一堂に会すこの祭りが危険視され禁止されたこともあった。しかし、相馬三社の祭礼として、幾多の困難を乗り越えながら今日まで受け継がれている。1952年には、国の重要無形文化財にも指定された、日本文化にとって重要な祭りなのである。
約740年にわたりこの地を治めた相馬中村藩の相馬家第34代当主として、現在もこの祭りに参加するのが、相馬行胤(みちたね)だ。北海道で牧場を経営する父の元育った彼は、小学生の頃から馬に触れ、14歳になった1988年から「総大将」としてこの祭りの行列を率いてきた。
「2022年に、息子の言胤(としたね)が14歳になったのをきっかけに、総大将を彼に譲りました。私が最後に総大将を務めたのはコロナ禍の2021年。2020年はコロナウイルスが蔓延したため神事のみしか行えず、2021年は甲冑姿にマスクを付け、一騎のみで街を歩くなど、規模を縮小して行いました。実は私の名前と同じ“みちたね(漢字は充胤)という藩主が江戸時代、第28代藩主としていたのですが、この時に天保の大飢饉(1833~1839年)が起き、大患難に見舞われています。どうやら”みちたね“という名前の当主が国を治めた時は大変なことが起こるみたいです。私の代にはコロナ禍があり、そして東日本大震災と福島第一原発の事故がありました」。
2011年3月11日の震災による津波で、福島第一原子力発電所は電源を喪失しメルトダウンを起こした。この原発がある福島県双葉郡大熊町は旧・相馬中村藩領に当たる。「相馬野馬追」の中心である南相馬市・相馬市は事故を起こした原発から50キロ圏内にあり、かつて相馬家が治めていた地域の1/3は放射能汚染のため、事故後に国から帰宅困難区域にも指定された。
「東日本大震災が起きた時は、当時住んでいた北海道からフェリーで秋田まで行き、そこから陸路で相馬市へと向かいました。途中、原発事故のニュースが耳に入り、福島の仲間からも、こっちに来るな、と言われました。でも私としては相馬が心配です。到着するとすぐに相馬中村神社へ行き宮司にこの年の祭事を執り行うか否か相談しました。宮司の答えは、やるべし。震災の被害や放射能の恐れもありましたが、そんな困難のなか「お行列」などを2か所で行いました」
2013年、相馬行胤は家族と共に、原発事故の帰宅困難区域に住んでいた人たちと暮らすことができるヴィレッジ建設のため、広島県神石高原町へと拠点を移し、小さな牧場を始めた。現在もここで自然の中、牛を育て、安全・安心な牛流やヨーグルトを作り出荷している。しかし彼は、広島県内の高原へ移住してから10年が経った2023年3月、帰宅困難区域が一部解除されたことを機に、福島県浪江町に住民票を移した。家族を広島に残し、自らは広島と福島を月に何度も往復する。ここ数年、年間50日を福島県内で過ごしたが、今年は年間の約1/3の100日をここ浪江町で過ごす。来年には年の半分はこの町を拠点に福島でも活動をする考えだ。
「浪江町は21代目の相馬中村藩主が隠居した後、移り住んで街づくりを行ってできた土地です。大堀相馬焼という焼き物があり、現在は町の基幹産業になっていますが、これもその時にできたものです。その浪江町に、隠居した34代目の当主が再び移り住み、町を再興するというのは面白いのではないかと思いました。ここで「驫の谷/Noma Valley」という人と馬が共生するコミュニティー・スペースをつくりたいと考えています」。彼はここ浪江町に移住した理由について話を続ける。
「私たちは2011年以降、震災と原発事故からの復興をメインテーマに掲げ活動してきました。しかし、私の考えが変わったのは2022年にウクライナ戦争が始まってからです。10数年に渡り放射能汚染に対処し共生をしてきた放射能先進国の私たちがその知見を活かし、核の脅威と戦っているウクライナの人たちの手助けをしないといけないのではと考えるようになりました。原発事故後に移住した広島が、核廃絶に向けて尽力し続けていることは肌で感じています。核の恐怖を訴えれば訴えるほど権力者は核を手放さなくなるということも知っています。その広島のバトンを福島が引き継ぎ、ヒロシマ・クフシマで協力して核の脅威を取り除き、核なき世界をつくる努力をしていくことがミッションではないかと感じています」。武力以外の方法で課題を解決する、現代に生きる「殿様」の活動は、祭りの総大将を引退した後も続いている。
相馬行胤(そうま・みちたね)
相馬家第34代当主。NPO法人相馬救援隊代表理事。一般社団法人SOMA共同代表https://nomavalley.jp/ 福島県相馬双葉地方を拠点に、伝統文化の振興、教育、エネルギーなどの分野に新しいムーブメントを起こすため、引退競走馬を活用した地域創生プロジェクトを始め、人と馬が共生するコミュニティづくりに取り組んでいる。また、広島県神石高原町で牧場を経営し、牛乳やヨーグルト、プリンなどをつくっている。https://www.somasranch.com