November 29, 2021
【中川 裕 】アイヌ語の研究者が語る、アイヌの思想。
「アイヌ語を母語とする人はもう日本にいないんです」。
アイヌ語研究者である千葉大学文学部の中川裕名誉教授はそう語る。他の言語と類似の系統を一切持たず、また地域によっても多様な方言が存在するアイヌ語は、かつては北海道から樺太、カムチャッカ半島にかけて広く分布していた。しかし、19世紀半ばから始まった日本の同化政策によって国内のアイヌ語話者は激減し、2009年にUNESCOが発表した「消滅の危機に瀕する言語」のレポートでも「極めて深刻」とされる部類に登録されている。
しかし、この数年間でアイヌに関する入門書や概説書が一気に増え、過去の絶版本も復刊されるなど、かつてない「アイヌブーム」がいま到来している。その契機の一端をつくったのが、中川教授がアイヌ語の監修を務めるマンガ『ゴールデンカムイ』だ。20世紀初頭の北海道や樺太を舞台にさまざまな男たちが伝説の金塊を求めてサバイバル・バトルを繰り広げる本作は、累計発行部数1700万部を超えるヒット作。このマンガの最大の特徴は、ヒロインであるアイヌの少女・アシリパ(Asirpa)を通して、当時のアイヌの狩猟法や料理、村の様子や儀礼などを緻密に紹介している点だろう。作者・野田サトルは自身のルーツが北海道にあることから、並々ならぬ情熱をかけて当時の歴史とアイヌ文化を調べ上げ、アイヌの人々の生きた姿を見事に描写した。いまや『ゴールデンカムイ』を読んで初めてアイヌ文化を知ったという若い世代が続出しており、また2019年に大英博物館で開催された「Citi Exhibition Manga」展では、マンガを通じて少数民族の文化を伝えるという社会的意義が高く評価され、展覧会のメインビジュアルにアシリパのイラストが採用されたほどだ。
「『ゴールデンカムイ』で最初に感動したのはストーリーテリングの巧みさです。そしてヒロインのアシリパが未来を生きるアイヌの女としてとても魅力的に描かれていること。またアイヌの儀式や狩猟の装束などがとても精密かつ正確な絵で描写されていたことにも驚きましたね」。作品クオリティの高さに驚き、二つ返事で監修の依頼を引き受けたという中川教授は、『ゴールデンカムイ』の作中に登場するアイヌ語の名称やアイヌ人たちの会話をすべて翻訳・監修しているという。
「はじめは抵抗感もありました。アイヌ語を母語としない私がアイヌ語の文章をつくることは、ときに新たな表現を生んでしまうことにもつながりますから。しかし、言語とは本来、常に新しい表現が生まれていくものですよね。『ゴールデンカムイ』のような人気マンガを通じてアイヌ語を伝え、さらにその物語のなかで新たな解釈や発見が生まれていく。それこそがアイヌ語を“生きた言語”にするものだと思っています」。
中川教授が提案する新しい解釈のひとつに、アイヌ思想の根幹を示す「カムイ(神)」という言葉がある。アイヌでは万物すべてに魂が宿ると考え、動物や樹木、道具、石や火など人間を取り巻くあらゆるものをすべて「カムイ(神)」として敬う。「通常、カムイは『神』と訳されることが多いのですが、私は『環境』という意味として捉えたほうがアイヌへの理解が深まると思っています。アイヌの人々は、自分たちをとりまく環境と良い関係を保つために、動物も道具も『カムイ』として大事に扱ってきました。そう考えると、たとえばいま私たちが使うスマートフォンだってアイヌにとってはカムイなのです。自然に囲まれた原始的な生活だけではなく、現代の都市生活においても、アイヌの言葉と思想は生きてくるものだと思います」。