August 26, 2022
建築家・坂 茂の被災者支援、日本国内での取り組み。
1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災。建築家・坂 茂の日本国内の被災者支援ボランティアはここから始まった。
「自分が設計した建物ではないにせよ、建築によって多くの人命が失われたことに建築家としてある種の責任を感じた」という坂は、1月末に被災地の「たかとり教会」を訪れた。ここには多くのベトナム人難民が集まっており、坂は神父に焼失した聖堂を紙管の仮設建築で再建する提案を行なった。教会との話し合いを経て、地域住民が利用でき、かつ日曜のミサも行える仮設のコミュニティホールの建設が決まった。ただし建設費の義援金と建設作業に当たるボランティアは坂が集めることになった。さらにこの「紙の教会」のプロジェクトを進める過程で、テント暮らしを続けるベトナム人難民のための仮設住宅「紙のログハウス」の建設も始まった。95年9月までに30戸の「紙のログハウス」と「紙の教会」が完成。2005年に役割を終えた<紙の教会>は台湾に移設され、地震で被災した台湾中部の南投県桃米村でパーマネントなコミュニティホールとして利用されている。
96年には被災地や難民支援を目的とするNGO<ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)>を設立。自らの設計事務所や慶応大学SFCの坂研究室の協力を得ながら継続的にボランティア活動が行える体制を作り上げた。
「NGOといっても僕以外には専従のスタッフがひとりいるだけです。VANには政府などからの公的な助成金の受け皿の役割もありますが、公的資金は下りるまで時間がかかるし、しがらみも多い。被災地でのプロジェクトを迅速に立ち上げるには、活動資金の調達をできる限り自力で行うことも重要です」
避難所で避難民のプライバシーを守るための紙の間仕切りシステム(PPS)。その開発が始まったのは2004年の中越地震からだ。坂は自らのアイディアをかたちにしたものを現地に持ち込み、利用者の意見を聞いて改良を重ねた。当初のPPSは紙のハニカムボードを使った家形もしくは囲いだったが、2006年に紙管のフレームと布を使ったシステム3に変更。現在のシステム4はその改良型だ。PPSの開発と普及にとって最大の難関は、設置の許可を得ることだったという。デモンストレーションをやろうとしても、避難所の建物内に入ることすらできないこともあった。
「役人は前例主義なので、前例のないことはやりたがりません。避難所の責任者のなかには間仕切りなどないほうが管理しやすいと言う人もいました」と坂は語る。2011年の東日本大震災のときは、間仕切りの材料をワゴン車に積んで各地の避難所を回るキャラバンを行なった。山形市の総合スポーツセンターでは管理者側が設置に難色を示した。ところが視察中の民主党の岡田克也幹事長がPPSを気に入り、その場で全世帯分の設置が決まったという。三度にわたるキャラバンの結果、50ヶ所の避難所に約1800ユニットのPPSを設置。その後PPSは2016年の熊本地震、2018年の西日本豪雨と北海道胆振東部地震、2020年の九州南部豪雨などでも活用された。現在では11都府県を含む58の自治体が災害時におけるPPSの提供に関する協定をVANと締結している。
東日本大震災では宮城県女川町の仮設住宅の設計も手がけた。「190世帯の仮設住宅が必要だが、平屋だと敷地が足りない」という町長の話を聞きた坂は、輸送コンテナを使った三階建ての仮設住宅を提案した。面積も費用も一般の仮設住宅と同じ県の基準に従っているが、住み心地がよく、入居者のなかには家賃を払ってでも住み続けたいと言う人がいたという。
「建築家の役割は問題点を解決し、住み心地のいい、美しいものを作ることで、それは仮設でも変わりません」と坂。次の大規模な震災に備えるために、よりレベルアップした仮設住宅も検討しているという。災害の現実に真摯に向き合うことから生まれる坂の建築はこれからも多くの人々に支持されていくに違いない。