September 22, 2022
【茶懐石 温石】焼津の鮮魚店と、二人三脚でつくる茶懐石。
地産地消が叫ばれる昨今。時に忘れ去られていた土地特有の食材にスポットライトを当て、ガストロノミーの舞台に引っ張り出す張本人は大方、シェフたちであった。20世紀の終わり頃から、シェフが生産者を育てる時代が続いた。だが、少しずつ、生産者側のリードによって、料理人が学び、育つケースが増えてきた。その代表が静岡・焼津にありながら、日本各地の有名シェフから支持される『サスエ前田魚店』と、そこから魚を仕入れる数人のシェフたちである。『茶懐石 温石』主人、杉山乃互はそのひとりだ。
杉山の家は祖父の代にそば店として創業。その後、東京・目白で、茶の湯の技術や精神を取り入れた茶懐石の名店として知られた『和幸』(わこう)』で修業を積んだ父が『茶懐石 温石』を始めた。杉山も父同様、和幸で修業を積み、8年前に実家に戻り、父の右腕として板場で腕を働くようになった。
「焼津に戻ってからも、ずっと東京には敵わないと思って仕事をしていました」と杉山は言う。だが、サスエ前田魚店・前田尚毅(なおき)とタッグを組み、同じ焼津にありながら全国屈指の予約の取れない店へと成長を遂げた天ぷら店、『成生』の姿を見て、考えが変わった。
「地元にいても東京などの都会に負けない店は作れる。それができないというのは言い訳、自分は勝負から逃げていたと気づいたんです」
実は杉山家が親子3代、魚をとり続けているのはサスエ前田魚店。しかも前田によれば、杉山家は「うちで一番取引の長いお店」。店に通ううちに次第に前田を魚の師と慕うようになる。まず、家族の反対を押し切り、前田の提案による店の改装を行った。厨房から料理を運ぶうちに熱々ではなくなる座敷中心の店から、ゲストの目の前で調理し、できたてを出すカウンター中心の店に作り替えたのだ。以来、じわじわと評判を上げ、日本各地のゲストから予約が入る店へと変貌を遂げた。
刺身か、椀物か焼くのか。杉山が求める調理法に合う魚を前田が納入し、杉山は前田から教わる魚の状態や情報をもとに、どのように切ったら、どこまで火を入れたら旨味が引き出せるか考えながら、実際に調理をする。そうして供されるのは伝統ある茶懐石のおもてなしマインドを柱に据えつつ、形式にこだわらない¥16,500のコースである。静岡の名物であり、また海の資源でもある桜エビを食べて育った良質のアジは梅肉風味のキュウリ巻きに。煮物椀の吸地は醤油などの味付けのみならず、出汁そのものが淡い。主役のイトヨリ鯛をより引き立たせるため、あえて出汁を引く際に鰹節の量を少なめにしているという。そこに焼津の浜に自生するツル菜が爽やかに香る。鮮度がいいからこその甘み、ジンドウイカはコリンキーと合わせて。その日の午後に港で揚がったばかり、本当に目が金色に輝く金目鯛は皮をパリパリと焼き上げた鱗焼きに。そんな料理が評価されるのは「命懸けで海の上で魚を獲ってくれる漁師さんをはじめ、静岡の先人たちのおかげ」とも杉山は言う。「まだまだ未熟」と謙遜する杉山の美味への探求はこれからも続く。
杉山乃互(すぎやま だいご)
1984年静岡生まれ。学生の頃から茶道を学び、高校卒業後より東京・目白で茶懐石の名店と知られた『和幸』(現在は閉店)で修業。6年後、実家に戻り『茶懐石 温石』で料理長である父とともに厨房に立ち、その後、店を継ぎ、現在に至る。
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