November 29, 2024
日本人建築家が、 世界から評価された理由。
今年2024年に建築家・山本理顕が“建築界のノーベル賞”と言われる「プリツカー建築賞」を受賞したことで、日本はアメリカと並び8組が受賞し、同賞の世界最多受賞国となった。では一体、なぜ日本人の建築家は高い評価を得たのか?1987年受賞の丹下健三から今年2024年受賞の山本理顕まで。日本人受賞建築家の経歴を紹介すると共に、その功績に迫りたい。
1987
Kenzo Tange ( 1913-2005 )
国際的に活躍した日本人建築家の第一号が丹下健三である。その丹下が世界から最初に注目されたプロジェクトが、広島のピースセンター計画だ。
原爆の投下から10年後に完成した<広島ピースセンター>(1955年完成)の設計をはじめ、計画のマスタープランから慰霊碑までを手掛けた。なかでも当時取壊しの議論のあった「原爆ドーム」を慰霊の軸線上に置き、平和を祈念するシンボルとし全体計画の中に取り入れることで、後世にこの建物を残したことなどが、高く評価されている。
その後、日本の戦後高度成長期時代を象徴する大イベント、1964年の東京オリンピック、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)でも中心的な役割を担った。オリンピックでは<国立代々木競技場>の設計を、大阪万博では会場マスタープランなどを手掛けた。
代表作に、<香川県庁舎>(1958年完成)、<東京都庁舎>(1990年完成)の他、<クウェート国際空港>(1979年完成)や<サウジアラビア王国国王宮殿>(1982年完成)など海外にも作品が多数ある。また彼は都市計画家として、イタリアのボローニャやナポリを始め、世界中で都市計画を行っているのも特徴である。
広島平和記念資料館
(1952年完成)
1949年に広島市主催のコンペ(平和記念公園及び記念館の設計競技)が行われ、丹下案では3棟の建築が並んで計画されたが、当初は中央の本館(写真)と慰霊碑に向かって右側の東館しか実現しなかった。
1989年、同じく丹下の設計で<広島国際会議場>が本館の左側につくられ、丹下が当初思い描いていた形となった。
1993
Fumihiko Maki ( 1928-2024 )
東京大学の丹下健三研究室で丹下に学んだ槇文彦は、その後、アメリカに留学。ハーヴァード大学大学院で建築を学び、卒業後は、アメリカの建築事務所に勤務した経歴をもつ。
彼の設計思想で特筆すべきは、「群造形」(グループ・フォーム)だろう。これは 1960年に日本で行われた「世界デザイン会議」に合わせ生まれた日本発の建築デザイン運動「メタボリズム」(新陳代謝と言う意味。自然界のシステムを介して建築を展開しようとした)のひとつとして提案されたものである。
槇が30代前半に中近東から地中海沿岸で見た民家群から着想を得た考え方で、これらの古い集落等に見られる様に、共通因子を持った小さな建築群が次々とつながっていくことにより見えざる骨格が自然と形成されるというものである。これが槇の代表作で東京にある<代官山ヒルサイドテラス>の設計につながっていく。この建物群は1969年完成の第一期から、1992年完成の第六期まで約25年をかけ、街のスケールにあった建築をひとつひとつ丁寧につくっていったものである。
4ワールド・トレード・センター
(2013年完成)
2001年のアメリカ同時多発事件で崩壊した世界貿易センタービル跡地に、最初に完成した超高層ビル。 建築家ダニエル・リベスキンドのマスタープランに基づき、<ナショナル9.11メモリアル・パーク>を取り巻くように立ち並ぶ、5棟の高層ビル群の中の一つである。
1995
Tadao Ando ( 1941- )
安藤忠雄の大きな功績のひとつは、「コンクリート」という世界中どこでも手に入る汎用性の高い建築土木用資材を用い、大理石のように美しい素材として広く世間に広めたことだろう。彼はコンクリートを用いて生み出した空間に、巧みに自然光を取り入れ、住宅であっても、そこが神殿のような崇高な建築に昇華させている。
また彼の人柄と作品に心底惚れる施主も多く、安藤と何年にも渡り、プロジェクトを伴奏していくクライアントが多いのも特徴である。例えば、瀬戸内海に浮かぶアートの聖地として知られる「直島」でのベネッセの福武聰一郎との関係。1992年完成の<ベネッセハウスミュージアム>から始まり、来年2025年開館の新美術館まで、30年以上に渡り共にプロジェクトを進めてきた。海外ではケリング・グループのフランソワ・ピノーとのタッグが知られる。未完に終わったパリ・スガン島の美術館計画(2001年)から、イタリア・ヴェニスでの<パラッツオ・グラッシ>(2006年開館)や<プンタ・デラ・ドガーナ>(2009年開館)、そしてパリの<ブルス・デ・コメルス>(2021年完成)まで、共に美術館をつくり続けてきた。
直島新美術館(仮称)
(2025年開館予定)
2025年春、瀬戸内海に浮かぶアートの聖地、ベネッセアートサイト直島に誕生する新しい美術館。
規模は地上1階、地下2階でカフェを併設する。安藤忠雄が直島に手掛けた10番目の施設となる。
2010
Kazuyo Sejima ( 1956- )
Ryue Nishizawa ( 1966- )
妹島和世と西沢立衛は、ひとりひとり独立して建築の設計を手掛けることもあるが、設計ファームSANAA(Sejima and Nishizawa and Associates)としても活動する。彼らの生み出す建築の特徴は、その「軽やか」さと「透明性」にあると言える。ガラスやアルミなどを使用した外観は、周囲の風景を映し出し、時には溶け込み、物質的な建築の存在を消してしまう。
さらに慣例に縛られない、自由な発想で生み出される空間は、常に世界を驚かせている。良い例が、<金沢21世紀美術館>(2004年開館)だろう。従来の美術館建築と言えば、左右対称で、その正面にエントランスが設けられている権威的なものが多い。しかし、彼らは円形の平面を持つ低層の丸い美術館をデザインし、4つの入り口を設け、誰でも自由にアクセスできるようにした。この「民主的な建築」を生み出した功績から、2004年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展では、「金獅子賞(作品)」を受賞している。
金沢21世紀美術館
(2004年開館)
金沢市中心部にある美術館。円形の平面プランの中に展示室やシアター、カフェ、ライブラリーなどが点在し、有料ゾーンと無料ゾーンが複雑に組み合わされている。外壁や建物内の壁面にガラスを多く採用し、明るく、開放的な空間になっている。
2013
Toyo Ito ( 1941- )
伊東豊雄は<せんだいメディアテーク>(2001年開館)や<台中国家歌劇院>(2016年完成)の設計をはじめ、その設計手法や構造とデザインの関係性の追求など、常に世界の建築界をリードしてきた建築家である。また妹島和世を筆頭に、事務所からは多くの著名な建築家を輩出していることでも知られる。
そんなリーディング・ランナーでもある彼の建築や、建築家としてのあり方を大きく変えた出来事が、2011年に発生した東日本大震災だった。彼はすぐに仲間の建築家に声をかけ、自らも現地に赴き、被災者のためのコミュニティスペースである「みんなの家(Home-for-All)を被災地につくることに奔走する。この活動のひとつを紹介した2012年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館での展示で伊東はコミッショナーを務め、見事「金獅子賞(国別)」を受賞した。彼は個人的に2002年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展でも建築家としての活動が評価され「金獅子賞(ライフタイム・アチーブメント)」を受賞しているため、これが2度目の受賞となった。
台中国家歌劇院
(2016年開館)
台湾・台中にある有機的な、まるで「いきもの」のような外観が特徴のオペラハウス。
カーブを描いた曲壁面を主な構造体とし、内部には大小様々な洞窟のような空間が広がる。
2014
Shigeru Ban ( 1957- )
坂 茂は、フランスの国立ポンピドゥーセンター分館建設の国際コンペで勝利し<ポンピドゥーセンター・メス>(2010年開館)を設計するなど、世界を舞台に活躍し高い評価を得ている。しかし彼が受賞に際し評価された点はそれだけではない。紛争や自然災害など極限状態の中にある避難者・被災者のために行う人道支援活動も忘れてはならない。
坂 茂の支援活動のスタートは、1994年のルワンダ難民のためにデザインしたシェルターだった。これは坂の提案が実りUNHCRのコンサルタントとして坂が雇われデザインしたもので、再生紙で作った紙管(固い紙でできた構造体となるパイプ)とプラスチック製のシートを使ったもの。当時、国連から支給される難民向けのシェルターはプラスチック製シートだけだったため、難民自ら木を伐りフレームを作らなければならず、木の伐採が進み環境問題を引き起こしていた。彼は1995年にNGO団体「ボンティア・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)」を設立、ウクライナ戦争の避難者や、ハリケーンや地震の被災者のためのシェルター建設など、日本国内はもちろん、海外でも積極的に活動を続けている。
紙のカテドラル
(2013年完成)
2011年2月に発生したカンタベリー地震により崩壊した、ニュージーランド・クライストチャーチの大聖堂を再建したもの。
現地工場で生産された196本の紙管とLVL材を使い、700名を収容できる大空間をつくりあげた。
2019
Arata Isozaki ( 1931-2022 )
恐らく世界の現代建築界に最も影響を与え続けてきた建築家が磯崎新ではないだろうか。丹下健三の研究室で学び独立した後は、多くの建築を生み出し、海外でもアメリカ、スペイン、中国・・・と、建築作品を挙げればきりがない。しかしそれ以上に、世界的なコンペの審査員や重要な会議、また巨大開発プロジェクトなどで、時にはプロデューサーとして、時にはフィクサーとして、その力を存分に発揮してきた。彼の行動は次世代を担う建築家を見出すと共に、著作などの言説により建築界を常に揺さぶってきたと言える。
彼は知の巨人であり、哲学・歴史・美術など様々な分野の文化背景や理論に通じ、それを建築の設計や計画に活かしてきた。代表作に、<群馬県立近代美術館>(1974年開館)、<つくばセンタービル>(1983年完成)、アメリカの<ロサンゼルス現代美術館新館>(1988年開館)やスペインの<サン・ジョルディ・スタジアム>(1990年完成)、カタールの<ナショナル・コンベンションホール>(2011年完成)などがある。
北九州市立中央図書館
(1974年完成)
磯崎新の初期作品の代表作のひとつ。青緑色をしたヴォールト状の屋根が印象的だ。北九州市にはこの図書館を始め、<北九州市立美術館>(1974年開館)や<西日本総合展示場>(1977年完成)、<北九州国際会議場>(1990年完成)など磯崎作品が多くみられる。
2024
Riken Yamamoto ( 1945- )
良質な建築をつくり続けてきた山本理顕が一貫して追及してきたのが「建築を通じたコミュニティ」の創出。プリツカー建築賞の受賞もこの点が評価されたといえる。
彼は大学院卒業後、建築家・原広司(JR京都駅や梅田スカイビルの設計で知られる)の下で、北アフリカや南米など世界中を周り集落の研究を行う。そこで見て感じた様々な住宅の形式やそれが群となった集落の形態、そこに暮らす人々の共同体の様子から影響を受け、現代社会に必要な建築は何かを自ら問いながら設計活動を行ってきた。そのことで時には商業主義一辺倒で作られた公共性の意識の低い住宅や都市開発を厳しく批評し、そのあり方に警鐘を鳴らしている。
彼が提唱する「地域社会圏(ローカル・リパブリック・エリア)」は、500~1000人くらいの小さな自治単位である。いかにこの小さなコミュニティを経済的にも意識的に自立させ、建築がその一旦を担えるか、団体を立ち上げ現在も研究を続けている。
横須賀美術館
(2007年開館)
東京湾を一望できる美術館。美しいガラスの箱の中に展示室と収蔵庫を配置し、高さを抑えることにより景観との調和に配慮している。
美術館の屋上は広場になっており、山側にある県立観音崎公園へ直接行き来できるようになっている。